【8月9日(火)】ホアロー刑務所跡
9時にホテルを出てハノイ大教会の裏手になるフーゾアン(Phu Doan)通りからハイバーチュン(Hai Bar Trung)通りに向かう。
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フーゾアン通りの歩道に並ぶバイク。 |
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バイクと車でごった返すフーゾアン通り。 |
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チャンティ(Trang Thi)通りの赤い横断幕で社会主義の街にいることを実感する。 |
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チャンティ通りの歩道に並ぶ果物を売る籠。 |
チャンティ通りを横切ってハイバーチュン通りに抜ければ、ホテルから10分ほどでホアロー刑務所跡(Hoa Lo Prison)の前に出る。開館時間は早くて8時に開くようだ。入館料10,000VND(約40円)。
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ホアロー刑務所跡入場券。 |
以下は刑務所内に掛けてあった「ホアロー刑務所の由来」からの抜粋。
『1986年にフランスの手によってホアロー刑務所が建てられるまでは、この周辺(Phu Khanh村)は湯沸かしやティーポット、携帯ストーブなどの陶磁器の製造で有名な村だった。ホアロー刑務所は当時のインドシナにおける刑務所の中でも最大規模の刑務所の一つだった。
1954年に北が解放されたあと、一時、法律違反者を収容するためにベトナム政府によって管理運営された。1964年10月5日から1973年3月29日の間、撃墜された米軍の北爆機のパイロットが捕虜となってこの刑務所に拘置されていた。
1993年、ベトナム政府は刑務所の南東部分を残してそれ以外の再開発を決定した。』
現在は一部を残した刑務所の跡地にショッピング・モールを含むオフィスビル「ハノイ・タワーズ」が建っている。
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ホアロー刑務所入り口。 |
刑所内に掛けてあった写真には刑務所と塀を接して建つ「ハノイ・タワーズ」が写っている。
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赤い屋根がホアロー刑務所跡(保存部分)。 |
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館内案内図。 |
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往時の面影が残っているだろうか? |
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薄暗い展示室には受刑者達の写真や遺品が展示してあった。 |
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上の展示室のドアに取り付けられた鍵。 |
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往時を再現した足枷に繋がれた受刑者達。 |
『刑務所の規則を破った受刑者を収容するために利用された刑罰房(Dungeon/独房)。ホアロー刑務所の刑罰房は非常に暗くて狭く『地獄の中の地獄
"Hell in hell"』と呼ばれた。受刑者は別々に収監され、足枷をはめられ、その場で食事をし、用をたさなければならなかった。ここに収監された全ての受刑者は浮腫を起こし、目はかすみ、身体は光と新鮮な空気の不足で疥癬に覆われた(刑罰房横の説明より)。』
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奥まった所にある刑罰房のドア。 |
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刑罰房の中。 |
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刑務所の北端。 |
中庭に出ると刑務所内の生活を描いたレリーフがあった。
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中庭のレリーフ。 |
展示室には処刑された受刑者の写真や拷問に使われた器具なども展示されている。
フランスがホアロー刑務所に投獄された受刑者の首をはねるために使った二つのギロチンの内の一基が、首をはねられた受刑者5人の名前と共に展示してあった。
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中央は処刑に使われたギロチン。 |
『第二独房:1943年8月、同志ホアン・バン・チュウ(Hoang Van Thu)はフランスによって逮捕、ここに投獄された。1944年3月24日、彼はハノイ・ツォンメイ(Tuong
Mai, Ha Noi)で銃殺された(独房の横に掛けてあった説明より)。』
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ホアン・バン・チュウが投獄されていた第二独房(左手前)。
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米軍北爆機の捕虜のコーナーには飛行服やヘルメットなどが展示されていた。捕虜を厚遇したという説明が繰り返されていたのは米国への配慮なのか。
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米軍捕虜のコーナーでビデオに見入る人達。 |
建物の外側は黄色いフランス色に塗られており、そこだけを見ている限りここが刑務所だったとは思えない。
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黄色いフランス色に塗られた刑務所の外観。 |
二階の展示室にはホアロー刑務所に投獄されていた人達の名前が刻まれた金色の名簿碑が並んでいる。
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二つの部屋に22基の名簿碑が並んでいた。 |
これも二階の展示室に掛けてあった写真で、キャプションに "Our soldiers taking over Hoa Lo Prison
in 1954" とある。
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我が兵士、1954年にホアロー刑務所を引き継ぐ。 |
南京の虐殺記念館でもホーチミンの戦争証跡博物館でも感じたことがだが、この手の記念館はどうしても政治色が伴い、目の前の展示品に目を奪われるのでニュートラルな気持ちで見ることが難しい。
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