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2011年8月:ハノイ 8月5日┃8月6日┃8月7日┃8月8日┃8月9日┃8月10日┃8月11日┃8月12日┃8月13日┃地図 ハノイ大教会│ホアンキエム湖・玉山祠│旧市街│タンロン城址┃●タンロン城址全景 【5月6日(土)】タンロン城址 旧家保存館を後にハンバック(Hang Bac)通り、ハンボー(Hang Bo)通り、バットダン(Bat Dan)通りと抜けて旧市街西部を目指す。名前は変わっているがこの三本は一本道。
1時はとっくに回っているが、街角の食堂では未だ大勢の人がランチタイムのようだ。
クアドン(Cua Dong)通りをまたぐ先程の鉄道のガード下をくぐる。ずいぶん低いな。
鉄道と並行して走るリーナムデー(Ly Nam De)通りを真っ直ぐ北に10分あまりゆく。前後を見渡しても他に歩いている人は一人もいない。左手の奥一体は軍の関連施設らしく近道をしようとしても通り抜けることができないので、やむなく直進を続ける。
門の左下に煉瓦が崩れているところがあるが、これは1882年に紅河(ホン河)に停泊するフランス軍の艦艇が撃った砲弾が当たってできた穴だという。
正北門を通り越しホアンゼウ(Hoang Dieu)通りで左折。広い道路だ。左にタンロン城址の古い煉瓦塀を見ながらしばらくホアンゼウ通りを行くと右側に門の形をしたモニュメントが建っている。ガイドブックを見るとホーチミン廟の裏手に広がるハーディン広場(Quan
Ba Dinh)の東の外れのようだ。
ハノイ戦争記念碑の真向かいにあたるタンロン城址の古い小さな門を、自転車に乗った現地の男女数名が入っていった。覗いてみると、門の裏側に詰め所がある。係員がこちらを見ながら手を振って入れという素振りを繰り返す。
タンロンを漢字で書くと「昇龍」。1010年に李太祖(リー・タイトー)がこの地に遷都してタンロンと名付けてから、1831年に都がフエに移るまでベトナム王朝の都だった。タンロン城址は旧ハノイ城跡として2010年8月にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
◆以下のサイズの小さな5点の写真は現地で取り損なってしまい、「まろの逃避行」より拝借した。
後楼と敬天殿の間の展示館のような青い建物が地下にシェルターを供えたシェルター館。
城址内の案内図ではこの地下のシェルターを"Shelter D67"呼んでいた。この地下シェルターが作られた年代は資料が見つからず不明だが、19世紀以降のフランス統治時代に作られたもので、ここにフランス軍の作戦司令部が置かれていた。
シェルター館と敬天殿の間にかまぼこ形の屋根をした三角が唐突に突き出ている。その場所から推測すると地下シェルターへの出入口ではないかと思われる。入口はコンクリートで塗り込めてあった。
地下シェルターの外部出入口付近の植え込みに柑橘系と思われる大きな実が生っていた。その木に"Citrus grandis Linn"と書かれた札が下がっていた。ザボンの仲間らしい。
もう一本、見慣れない実の付け方をした木があった。幹から直接下がっている大きな実はジャック・フルーツ。
敬天殿跡地の正面に回ると龍の石段がある。
この石段の上が皇帝の宮殿があった場所とされているが、現在はフランス統治時代にフランス軍司令部が置かれていた建物が建っている。
現在、敬天殿(Dien Kinh Thien)と言われている黄色い建物はフランス統治時代に建てられたもので、当時のフランス軍司令部が置かれていた建物。
敬天殿正面のドアが開いていたので入ってみた。磨き立てられたフローリング床を土足のまま歩くのはためらいがあったが、好奇心の方が強かった。落ち着いた会議室のような部屋の中央に、きらびやかな祭壇があったが誰を祀ってあるかは不明。
敬天殿の両脇の展示館はに敬天殿跡から発掘された遺物が展示されている。
自由に中を見学することができる。この時は他に見学者は誰もおらず、ヒマそうな女性職員が二人、カウンターに頭をのせてウトウトしていた。
敬天殿の真向かいの綺麗なファサードを持った黄色い建物、城跡内の案内図では考古館と書かれていたが入館することはできなかった。
考古館の裏に回る。黒い煉瓦の壁が重々しい第一城壁の正門「端門(ドアン・モン/Doan Mon)」が建っている。
門の横手にある石段を登って門の上に出る。フランス統治時代の復元なのか楼閣が黄色い。
楼閣の中から狭い石段でもう一層上に上る。そこには小さな祭壇があり、その前に金庫が置いてあった。この金庫の存在理由は不明。
端門の南側に芝生が広がり、その向こうに赤い旗がひらめく塔が見える。ベトナム軍事歴史博物館に建つ旗塔だ。1805年から七年間かけて建てられた高さ33メートルの監視塔もタンロン城址の一部になっている。
端門の外に出て芝の広場から端門を振り返る。敬天殿へのただ一つの門だったという端門、端門の「端」は端正の「端」だと思いたくなる。
タンロン城址を跡にディエンビエンフー(Dien Bien Phu)通りを下ってチャンティ(Trang Thi)通りに入る。
踏切を渡った先で道がいくつにも分かれている。ガイドブックの地図とはおよそ様子が違う。どちらに進めば良いのか分からなくなってしまったが、何度か道を聞いてようやく進む方向を快復。
汗びっしょりになってしまった。ホテルに戻ってシャワーを浴び、くたびれた足の疲れをとる。
ハノイではカフェ・ツアーの老舗だという「リアル・ダーリン・カフェ」を探して,もう一度ホアンキエム湖の北の旧市街地に行く。ハンクアット(Hang Quat)通りにある「リアル・ダーリン・カフェ」は直ぐに見つかった。
店内奧のカウンターに座ると、直ぐに係の女性が『何処を見たいの?』というので、メモ書きにしておいた見学場所のリストを見せる。こちらの滞在期間と今日までに見学した場所を聞いた上で、いくつか提案してくれた。
ホテルの近く、リークオックスー(Ly Quoc Su)通りまで戻ってくると、季国師寺の門が開いていて道路に明かりが漏れている。中を覗くと制服姿の25人ほどの人達が座ってお経を上げていた。
ハノイ大教会の土曜礼拝といい季国寺の勤行といい、共産主義国ベトナム、ハノイの人達は信仰熱心だ。信教についてベトナム政府は何の規制もしていないように見える。 |