【4月29日(土)晴】兵馬俑 一号坑
1974年に発見された兵馬俑、正しくは秦始皇帝兵馬俑博物館のことで、秦始皇帝陵遺址公園と併せて秦始皇帝陵博物院と呼ばれる広大な歴史遺産だ。
秦始皇帝兵馬俑博物館は一号坑から三号坑から成り、秦の始皇帝(紀元前259年 - 紀元前210年)の陵墓を守る副葬品として造られた兵士や馬の陶製の像が、発掘当時そのままの様子で保存されている。
他に文物陳列庁が併設されており、1987年に秦始皇帝陵遺址公園とともに世界遺産に登録されている。
|
一号坑。 |
一号坑、三号坑、二号坑、文物陳列庁の順に見て回る。乳母車や乳幼児の姿も見られ、どの館内も人でごった返している。
|
一号坑前に並ぶ見学者。 |
|
入り口に掛けられた篆書体の「秦兵馬俑一号坑遺址」。 |
1974年に人民公社の農民が、農業用の井戸を掘っている時に偶然発見した兵馬俑坑だが、第一発見者は楊志発さんとも楊俊朋さんとも言われていて諸説あるようだ。
「シルクロード第一巻:長安から河西回廊へ」(陳舜臣・NHK取材班著:NHK出版 1980.4)に著者が第一発見者にインタヴューしたときの様子が載っている。少し長いが以下に引用する。
万里の長城にも比肩すべきこの壮大な兵馬俑坑、いったい、誰が発見したのか。
臨潼県西陽村の人民公社で働く楊培彦(五十一歳)という人が、その発見者であるという。私たちは、楊さんが働いている綿花畑を尋ねることにした。兵馬俑坑から一キロほど南へ行ったところに、綿花が真っ白い実をつけて九月の太陽の下でわらっている。十七、八の娘さんが十数人そろって、雑草を摘みとっている中に、目ざす楊さんがいた。さっそく楊さんにたずねた。
「あなたが、秦始皇帝兵馬俑坑を発見されたそうですねえ」
「そうです。しかし、私だけではありません。わが人民公社の農民たちが、農業用の井戸を掘っておりました。すると四メートルくらい掘ったところで、土器の破片のようなものが見つかりました。さらに掘ってみますと、何か妙なものがゴロゴロ大きな塊りとなって出てきます。ここの土壌は黄土層ですから、そんなものが出てくるはずはないのです」
楊さんの話に耳をかたむけているうちに、私たちは、農作業の手をやすめた娘さんたちにすっかり取り囲まれてしまった。畑の中でカメラがまわり、録音機が動くインタヴューがよほど珍しいのであろう。
「それでどうしたのですか」
「私たちは、それぞれに ”水がめではなかろうか、いや釜だろう” とか勝手に想像しましたが、なかなか埒があきません。まあ、それで学者を呼んで調べてもらったわけですよ」
「それが兵馬俑、世紀の大発見だったというわけですか。さぞ、びっくりされたことでしょう」
「私たち農民は少しも驚きません。びっくりしたのは考古学者ですよ。ハハハハ……」
「あれだけの大発見をされて、今は英雄ですね。楊さんは」
「いや私一人ではありませんよ。中国では農民はみな英雄なんです。ハハハハ……」
真っ黒く日焼けした楊培彦さんの顔の中で、白い歯がひときわ輝いてみえたのであった(引用ここまで)。
一号坑内に入って最初に飛び込んできた光景はインパクト大、写真で見ていた以上の規模に万里の長城で感じたと同質の感動があった。
|
整然と並ぶ兵士たち。 |
一号坑は東西230メートル、南北62メートルの中に掘られた深さ5メートルの坑道で、約2000体の兵士俑が馬俑とともに38列に並んでいる。総面積は1万4200平方メートルになる。
|
ここからでも兵士たちの顔つきの違いが分かる。 |
|
数は少ないが馬の像も見える。 |
|
週日なのにこの見学者の数。 |
一号坑はまだ完全に発掘は終わっていないようだ。
|
調査・修復中の兵士像。 |
|
ここは記録、調査、研究用のコーナーのようだった。 |
|
ここに並ぶ兵士像も修復中。 |
|
出口側からの一号坑。 |
一号坑を出て、三号坑に向かう。
|