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  2009年8月:大連
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安楽街旅順口星海広場・老虎灘

【8月1日(土)】旅順口

9時少し前に迎えに来てくれた劉丹さんが顔を合わせるなり、『今日は両親が旅順口を案内するから…』と言う。今回の大連訪問で旅順口に行くつもりは無かったのだが有り難い申し出、断る理由はない。

旅順口は軍事基地がある地域なので『自由に歩き回ることができない。観光するときは注意するように。』とガイドブックで説明していたが、どうなることやら。

とりあえずホテルを出発して中山広場に向かう(行く先は劉さんにお任せ状態)。

朝の中山広場。ロータリーは車の流れが途切れることがない。

大連で流行中の結婚パレードの車。レンタル料はかなり高額だと劉さん。

中山広場から中山路に入る。携帯電話を使いながら歩く劉さん、何処に行くつもりだろう?

中山路。奥は友好広場。

友好広場まで来てしまった。ここでタクシーに乗る。どうやら劉さんはご両親と落ち合う場所を連絡し合いながら歩いていたようだ。

友好広場の球状モニュメント。

タクシーで20分以上走ったろうか、突然大きな道路(国道)の途中でタクシーを停めて降りる。降りたタクシーの真ん前に乗用車が止まっていたがそれが劉さんのお父(劉忠鳴)さんの車だった。

お互い自己紹介もそこそこに出発。お父さんの車に合流したのは後で考えると旅順口までの行程の半分くらいの所だったのだろうか。

旅順口では、ご両親の40年来の友人で今も家族ぐるみの交流が続いているという付慶忠さんが経営する「蘭寧休閑苑」で一休み。この店は付さんが昨年定年になって開店した店で、付さんと奥さんの謝秀蘭さんで切り盛りしているらしい。
麻雀卓や撞球台、カードテーブル、お茶などを提供するのだが、開店して間もないのに毎晩近所の人達の利用があって繁盛しているそうだ。

未だ新しい「蘭寧休閑苑」。

こちらが一休みしている間に付さんが旅行代理店に勤めている息子さんに電話をして、外国人が観光可能な旅順口のスポットを調べてくれたみたいだ。殆どの観光スポットが今年から自由に見られるようになったらしい。

劉さんのお父さんは旅順口の道に詳しくないというので、これも付さんの口利きで迎えに来たタクシーで劉さんと二人で旅順口を回ることになった。『タクシーの運転手はよく知っている人だから安心して乗ってください。』と付さん。

車を走らせながらタクシー氏、同業者に電話をして情報を確認している。
その同業者によると、ほんの数週間前に当局の方針が変わり、現在は203高地だけが自由に見学できて後は事前申請がないと観光できなくなったと言う。

その情報をくれた同業氏が一週間前に日本からの観光客4人を乗せて旅順口を周った時に、規制区域を自由に歩き回って全員が公安に捕まってしまったから、絶対に203高地以外は行くなと警告してくれたようだ。

203高地に行く前に旅順駅に寄る。
旅順口区では勝手に歩き回るな、写真を撮るなとガイドブックに書かれている。ところがタクシー氏は黙って(外国語を話さなければの意味だったらしい)撮影すれば大丈夫だからといって、タクシーを降りて撮影することを勧めてくれた。

それではと、せっかくなのでタクシーを降りて駅舎を撮影。何となくビクついている自分を感じた。
シャッターを切ってから何気なく振り向いたら、背中を預けた後ろの建物には大きな字で「公安」と画かれた看板が掛かっていた。もちろん何事もなかったがいい気持ちはしなかった。

ロシアの香りがする旅順駅舎。

ホーム側に回ると緑色の屋根の上に「旅順站」の金文字が見える。帝政ロシア時代に建てられた東清鉄道終着駅「旅順站」の駅舎は100年前の姿そのままで残されている。

緑の屋根に「旅順站」と読める。黄河路側から撮影。

黄河路から旅順駅のホームを撮影したが黄河路の直ぐ下は旅順港で、そこには軍の船舶が並んでいた。君子危うきに近寄らずで軍港は撮影しなかった。

旅順駅を後にして向かう先は二〇三高地。
到着した二〇三高地の入り口は大きな公園の入り口のようで入場料は30元(約450円)。入り口で受け取った案内パンフレットには203高地は「国家級森林公園」とある。

二〇三景区入園券。

駐車場でタクシーを降りて後は徒歩。いささかお粗末な建物だったが「203高地陳列館」を見学する。

二〇三高地陳列館入り口。

陳列館の内部には古い写真や錆びきった砲弾が陳列されていた。

二〇三高地陳列館内部。

陳列館を出て急な坂道を登って行くと「爾靈山」と浮き彫りされた砲弾型の塔の前に出る。

日露戦争(1904年)における二〇三高地の激戦は有名だが、戦後乃木希典が砲弾の残片からこの碑を建て戦死者を追悼したのだそうだ。碑の「爾靈山」は二〇三を粒読みした『ニ・レイ・サン』に漢字を充てたもので、乃木希典のアイデアだという。

石垣台座の2段目には錆びたプレートが嵌め込まれているが、何が刻まれていたのか今はその表面はノッペリしている。

爾靈山塔。


爾靈山塔の側に建つ説明文。

順路に沿って歩いたが激戦の地だったという形跡はどこにもない。ただ夏の濃い緑に包まれた、蝉がやかましいだけの高台だった。

移動された大砲の跡が残る見晴台。

露式150mmカノン砲。

もう一カ所の見晴台の下には旅順港が広がっていた。

日式280mm榴弾砲。奧の建物は今は使われていない展望台。

ロシア軍の塹壕跡。

補修されているが銃眼が残る擁壁。

乃木希典の次男、乃木保典戦死の地に建つ碑。

山を覆う蝉はミンミン蝉のようだが日本のそれとは少しテンポが違うようだ。
帰国してから採録した日本(松戸市)のミンミン蝉の声と比べてみると、二〇三高地で聞いたミンミン蝉は少しテンポが早いようだ。

蝉の鳴き比べを聞いてみる

二〇三高地の見学を終えて「蘭寧休閑苑」に戻る。
劉さんの叔母さん王淑鳳さん(お母さん王淑華さんの妹)も近くの住まいから来ていてトランプゲームに興じていた。このトランプゲーム、カードを3組使う大連独特のゲームだという。しばらく見ていたが、どんなゲームなのか全く分からなかった。

向かい合う二人がチームでゲームを進めるらしい。

カードを手さばきよく分けてゆく。


劉丹さん、付慶忠・謝秀蘭さん夫妻、劉丹さんのご両親。

遅い昼食を数軒隣の「三世飯店」でご馳走になった。

「蘭寧休閑苑」の右数軒隣の「三世飯店」。

劉さんをよく知る「三世飯店」オーナー夫妻は背が高い。

清潔な「三世飯店」店内。

テーブルに並んだ料理はどれも初体験。
海老味噌を鶏卵と一緒に炒めたもの(写真中央の籠に入った料理)を、トウモロコシの粉を薄く焼いたもの(写真中央、クリーム色のハンカチ様のもの)に包んで頂いたが、これホントに絶品。

旅順口だけで獲れるという黄魚(Huangyu)の煮物も美味しかった。この魚、チョット身は鱗が細かくて川魚みたいだが海で獲れるものだそうだ(写真にないのが残念)。
他に豚足、ジャガイモの千切り酢辛子炒め、キャベツ炒め、モヤシ・シメジ・香草・胡瓜の炒めものもさっぱりしていて美味しかった。

大連を代表する料理が並んだテーブル。

どれも代表的な大連の料理だそうだ。
ビールは大連「干新」ビールで昨夜の「新動」ビールよりズット日本のビールに近かった。あまりお酒を飲まないという劉さんのお父さんによれば、「干新」ビールは他のビールより苦味が強いと言っていた。

遅めの昼食後、「蘭寧休閑苑」のオーナーご夫妻に別れを告げ、いずれ引っ越してくる予定で購入したという劉さんのマンションを見せてもらった。内装は済んでいたが家具はこれからだという。

劉さんのお母さんの話では、購入価格は400,000元(約6,000,000円)。中国では日本のような長期ローンが無いそうでしっかりした資金計画をしないと購入は覚束ないだろう。

中国の分譲マンションは日本と違って内装工事をしないでスペースだけを販売する。内装は購入者が購入後に各自の好みで行うのでそのつもりで資金計画を立てる必要がある。

このマンション内に出た温泉を利用するために、現在、敷地内に温泉浴場やプールの建設工事が進んでいる。初の日本訪問で初めて温泉に浸かり、以来すっかり温泉好きになった劉さんのお母さん、今はマンションの温泉施設が完成するのを心待ちにしている。

旅順口は大連の郊外になるらしくこの地域に住宅を持ちたいという人が増えているという。現在も旅順口は空前のマンションブームで続々と高層マンションが建設されているという。

しばらくすると劉さんの従兄とその弟の奥さんがそれぞれお子さんを伴って現れた。

写真左から劉丹さん(以下劉丹さんを基準に)、劉忠鳴さん(お父さん)、蔡靚々ちゃん(従兄・蔡志法さんのお子さん)、王淑華さん(お母さん)、洋々くん(于華さんのお子さん)、于華さん(従兄・蔡志法さんの弟の奥さん)、王淑鳳さん(叔母さん)、蔡志法さん(従兄)。

ひとしきり挨拶を交わした後、ご両親や叔母さん達と別れて従兄の車(中型のBMWの新車だった)で大連に戻り、星海広場に連れて行ってもらうことになった。
ビール祭り開催中のあの巨大な広場だ。

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