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2011年5月:瀋陽 II 5月6日┃5月7日┃地図 張氏帥府博物館│博物館(中院)│博物館(東院)│清真美食街│●博物館全景 【5月6日(金)】張氏帥府博物館(東院) ●張氏帥府博物館全体の配置は「博物館全景」を参考にしてください。
岩山に見立てた假山に穿たれた狭い通路を通って大青楼の前に出る。「洋館」と呼ぶのにピッタリの大青楼は1918年から1922年にかけて青煉瓦で建てられたローマ様式の建物だ。「大青楼」という名前は青煉瓦にちなんでつけられたと館内のプレートに書いてあった。
張作霖、張学良親子がここで政務を執り、私邸としても使っていた。三階建ての内部には執務室、応接室、宴会場などが備えられている。建物の建築面積は2,460平方メートル、高さは37mあり、当時の奉天(現・瀋陽)で一番高い建物の一つであった。
一階の入り口を入った突き当たりにあるのが「餐会庁」。張作霖・張学良の家族達の食堂。時に重要な来客があったときはここで食事を共にした。
入り口を入って直ぐ左側の部屋が張作霖の執務室。机の前に「冰箱」と書かれた札が載っているのは氷箱(アイス・ボックス)。
東奥の部屋が二匹の虎の剥製が飾られている「老虎庁」。
この事件は日頃専横なふるまいの多かった楊宇霆と常蔭槐が「東北鉄道督辧公署」設立に関する書類を持って老虎庁で張学良に面会したときに起きた事件だ。
階段を上ると直ぐ右手に張学良の執務室がある。背後の女性ばかりが描かれている陶板画には何か謂われがありそうだ。
張学良の遺品や彼に関する品々が展示されている部屋の一つに、大青楼を訪れた中国要人の色紙が何枚か飾ってあった。
東院の東北角には張作霖が崇拝していた関羽を祀った関帝廟がある。
関帝廟から博物館の東端を南に行くと小青楼の黒い建物の背中が見える。
張作霖は1917年に彼の元に嫁いできた第五婦人・寿懿のために1918年にこの小青楼を建てた。寿懿は張作霖との間に学森、学俊、学英、学銓の四人の男子をもうけている。
1928年6月4日、関東軍によって引き起こされた、後に張作霖爆殺事件と言われる満州鉄道爆破事件で重傷を負った張作霖(乗っていた列車は京奉線)は、事件現場の奉天駅近郊から車で小青楼の客室に運び込まれたが、その日の内に息を引き取った。彼の死は政略上の理由で直ぐには公表されなかった。しばらくの間伏せられていた。
客室の反対側が寿懿の寝室。寝台のある部屋はレースのカーテンが掛かる左奥の部屋のようだ。
博物館の東塀にある小さな門から外に出ると別館「趙一萩故居」の前に出る。別名「趙四小姐楼」。1928年から1931年まで趙一萩がここで暮らしたために「趙一萩故居」と呼ばれるようになる。
入場券を見せて中に入ると左側に自然石に「趙一萩故居」と刻んだ石碑が置かれている。
一階の入り口を入るとそこが「門庁」。
舞庁とドア続きになっている琴庁にはピアノが置いてある。趙一萩が張学良のために弾いたのだろうか。
二階には図書室兼会議室、趙一萩の執務室と寝室がある。
「趙一萩故居」の見学を終えて外に出ると門の前に大きめの丸い穴が明いている。何かと思ってのぞいてみたら蓋をどけた下水の立て坑で、赤煉瓦が積み重ねられた下水口だった。
11時頃に張氏帥府博物館に入館して中院、東院、趙一萩故居を見学し終わったら2時を少し回っていた。
一息入れるために趙一萩故居からは300mほどのホテルに戻る。 |