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2011年5月:瀋陽 II 5月6日┃5月7日┃地図 張氏帥府博物館│博物館(中院)│博物館(東院)│清真美食街│●博物館全景 【5月6日(金)】張氏師府博物館(中院) ●張氏帥府博物館全体の配置は「博物館全景」を参考にしてください。
正門を正面から見ると軒下の桁が綺麗に彩色されている。
正面入り口の扉がたいそう立派。左右に別の武人が描かれている。扉の周囲に説明がなかったが、赤ら顔と黒い顔は誰と誰だろう。赤ら顔が関羽で黒い顔が張飛かな。
正門を入ると一進院の中庭だ。周囲の建物と壁が灰色なので質素な印象を受ける。
垂花儀門の左側に展示されている黒い馬車は張家の子供たちを学校へ送迎する通学専用馬車。
馬車の左側が「承啓所」。
承啓所の内部は当時の様子を人形で再現してある。
張氏帥府博物館内はあちらこちらに撮影禁止の表示があり、場所によっては職員が立っている所もある。そんな場所でもストロボを発光させて撮影する旅行者が絶えないが、職員は全くの無反応。事実上、撮影可の状態だった。もちろん当方に文句はない。
内帳房の内部も蝋人形で当時の様子が再現されている。
「垂花儀門」を正面から見ると、軒下の彩色透かし彫りが周囲の灰一色の中で一際鮮やかだ。重要な客や外国の使節が来た時に張作霖がこの門の前で儀典を行ったことから儀門(礼典門)の名がついた。
誰の手によるものなのか「宏開塞外」の扁額が垂花儀門に架かっている。「辺境を広く開く」ほどの意味になるのだろうか、満州を駆けた張作霖の理想なのかもしれない。
垂花儀門をくぐると二進院。張作霖が1916年から1922年の6年間、私邸兼官邸として使用していた所だ。
入り口上に掛けられた二枚の扁額。手前の「望重長城」は「もう一度万里の長城を眺める」 、奧の「桑梓功臣」は「故郷の功労者」になるが、現中国で張作霖の評価が好いのは張学良をはじめとする息子達の、その後の国政に対する実績によるものだろう。
建物の東部分には張作霖の執務室と寝室、西部分には書斎と会議室がある。中央は女性家族達が暮らす三進院に出られる中央廊下になっている。
二進院の東と西には秘書室棟が建っており、ここで秘書とスタッフが張作霖のために草稿を起こしたり、日常業務を行ったりしていた。
西側の秘書室棟は内部を取り壊し工事中だった。
張作霖の執務室の前を通って三進院に進む。
三進院の東側、張学良一家の居室棟の真向かいには張作霖の第四夫人の許澍杨とその子供たちの居住棟がある。許夫人は1906年に張作霖に嫁ぎ二人の息子、学曽、学思および二人の娘、懐瞳と懐曦を設けている。
許夫人の居住棟内は清朝末期から満州国建国、国民党や共産党の台頭、抗日闘争と目まぐるしく変わる時代を背景に活躍した張作霖・張学良に関する資料の展示室になっていた。
展示室の片隅には1936年4月9日に膚施(現・延安)のカトリック教会堂で張学良と周恩来が、国共内戦を停戦させ抗日共闘のための秘密会談をもった時の模様が再現されている。
三進院の正面(北側)は張作霖の第二夫人と第三婦人の居室棟が建っている。
第二・第三夫人の居室棟内も許夫人の居住棟に続いて、張作霖や張学良の活動に関する資料の展示室になっている。
1909年、奉天(現・瀋陽)巡回防衛隊長に任命された時の張作霖(34歳)と張学良の母親・趙春桂の写真が飾ってあった。張作霖は小柄だがハンサム。張学良の母親(趙春桂)については詳しいことが分かっていないらしいが、張学良が11歳の時に亡くなったようである。
入館者のスキマを縫って新人らしい職員が展示パネルを見ながら暗唱している説明を繰り返している。時々手にしたテキストに目を落として、次のパネルへと移動する。目があったら照れくさそうにニヤリ。説明員がいるということは時期によっては大勢の入館者がいるのだろう。
三進院奧の東側通路から東院に出る。 |