【4月28日(土)晴】武侯祠博物館(1)
寛窄巷子から武侯祠博物館前までタクシーで13元(¥247)。
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カーナビゲーションはスマートフォン。 |
黒い照壁の前でタクシーを降りる。
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武侯祠博物館前に建つ照壁。 |
照壁の横には自然石に「三國聖地」と刻まれた石碑が建っている。ここは三国志の聖地だ。
中国の後漢末から三国時代(180 -- 280)までの魏、呉、蜀、三国の争いを描いたのが三国志。その三国時代に蜀を建国した劉備、その劉備を武の面から支えた関羽と張飛、智の面を補佐したのが諸葛亮孔明。
諸葛亮孔明は死後、武候と諡(おくりな)されここに祀られているところから、ここが武候祠と呼ばれている。
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石碑「三國聖地」。 |
先ずは武侯祠博物館へ。入館料60元(¥1,140)。
切符売り場で案内図をくれなかったので、武侯祠博物館見学中は自分の居場所が定かでなく、ズット不便だった。
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入場券売り場。 |
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武侯祠博物館入場券売 60元。 |
切符売り場の直ぐ左手が「漢昭烈廟」の扁額がかかる武侯祠博物館の入り口で、この扁額が示しているのはここが「昭烈帝」と諡(おくりな)された漢の劉備の廟であることを示している。
「漢昭烈廟」の扁額が掛かる武侯祠博物館の正門「文物区大門」を入る。この門は「大門」と呼ばれるようだ。
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武侯祠博物館の正門「大門」。 |
門を入ったところに掲げられた武侯祠博物館の説明には日本語表記もあり、以下のように書かれている。
『成都武侯祠は中国最大の三国遺跡博物館で、1780年の歴史がある。主に恵陵、漢昭烈廟、三義廟などの文物と古い建物から成っている。ここは唐から宋の
時代には既に有名な観光地だった。現在の主な建物は清の康煕11(1672)年に改修されたものである。祠の中には劉備玄徳や諸葛孔明を始めとする蜀漢の
英雄50人の塑像が祀られている。』
インターネット上で武侯祠博物館の案内図を探したらこれが見つかった。
これでこの博物館の全体の広さが分かる。
中央から左半分が武侯祠博物館で右端はこの後に回った錦里。中央から右半分は博物館に合併された南郊公園で合併後の敷地面積は14万平方メートル。
文物区大門を入ると漢昭烈廟、武候祠と三義廟(関羽と張飛を祀った廟)が縦に一列に並んでいるのが分かる。
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ネット上で見つけた武侯祠博物館の案内図(案内図をクリックで拡大表示)。 |
文物区大門を入って左側に建つのが「明碑」。
明碑の説明板によれば、明の嘉靖26(1547)年に張時徹が碑文を書き、高登がこれを彫ったとある。
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明碑。 |
文物区大門の右側、明碑の真向かいに建つのが唐碑。
こちらの正式名称は「蜀丞相諸葛武候祠堂碑」といい、唐の元和4(809)年に建てられている。
唐代の名相斐度が起草した碑文を柳公綽が揮毫、魯建が彫っている。
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唐碑。 |
明碑と唐碑の参道を進むと「二門」がある。
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大門を入ってから最初の門は「二門」。 |
この門に掛かっている扁額に「明良千古」とあるが、「明」の偏が「日」ではなく「目」になっている。誤字ではない。清代に四川提督も務めた将軍・呉英の書で1696年に書かれたもの。清代には「明」の偏が「目」になっているものがよくあるらしい。
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呉英の書「明良千古」の扁額。 |
二門から右手に「文华」と書かれた回廊への入り口がある。
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回廊への入り口「文华」。 |
「文华」を入ると右手の壁に黒御影石に彫られた達筆な碑が嵌め込まれているが、謂諸葛亮による名文「出師の表」。
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謂諸葛亮による名文。 |
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「出師の表」の最終部。
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黒御影石の碑が嵌め込まれた壁に現れた黒い蜘蛛が一匹。
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壁を伝う蜘蛛が一匹。 |
回廊の東側は「文臣廊」で蜀漢の文官像が並んでいる。各像の説明はその像の前に設置してあった説明板による。
◆程畿(?-- 222)
字は季然。巴西閬中(四川閬中)の人。劉備に従って呉と戦い戦死。この像は道光29(1849)年に建てられた。
◆馬良(187 -- 222)
字は季常。襄陽宜城(湖北省宜城)の人。馬謖の兄でその学識と豊かな才能で知られていた。使節として呉に渡ったときに孫権から尊敬される。劉備が呉を倒し
たときは五渓蛮との連絡係を担当し、劉備が敗れたときに彼も殺されている。この像は道光29(1849)年に建てられた。
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程畿(右)と馬良(左)。 |
◆楊洪(?-- 228)
字は季休
。犍為武陽(四川省彭山)の人。漢中領有をめぐり曹操と戦った時に諸葛亮に前線の劉備を全力で支えようと献策したことで知られている。その後、蜀群太守に任命されている。この像は道光29(1849)年に建てられたもの。
◆秦密(?-- 226)
字は子勅。広漢綿竹(四川省徳陽)の人。三国時代の著名な学者。呉の使者・張温の詰問に対し淀みなく回答したことで知られている。この像は道光29(1849)年に建てられた。
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楊洪(右)と秦密(左)。 |
◆董允(?-- 246)
字は休昭。董和の息子。人となりが大変に正直で、蜀国の第二代皇帝・劉禅(劉備の息子)が後宮のために美人を集めようとしたときに何度も反対したという。諸葛亮、蔣琬、費禕と共に「四英」と称された。この像は康煕11(1672)年に建てられた。
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董允。 |
◆蔣琬(?-- 246)
字は公琰
零陵湘郷(湖南省湘郷)の人。国を治める才能があり諸葛亮に重用された。北伐の過程で相府を守ったときに前線への補給を保障した。諸葛亮没後は蜀漢の軍と政を取り仕切っている。諡(おくりな)は恭。この像は康煕11(1672)年に建てられた。
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蔣琬。 |
◆陳震(?-- 235)
字は孝起。南陽(河南省南陽)の人。呉との同盟関係を維持するために使者として呉に向かい、その使命を果たす。持ち前の鋭い洞察力で李厳の不正に早くから気づく。この像は清の乾隆53(1788)年に建てられた。
◆鄧芝(?-- 251)年
字は伯苗。義陽新野(河南省新野)の人。劉備没後、諸葛亮に使者として抜擢され呉に赴いて、その使命を果たす。
将軍の地位に二十年余り、信賞必罰で臨んで兵卒をいたわる。日ごろの生活は質素で僅かな財も残さなかった。この像は清の乾隆53(1788)年に建てられた。
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陳震(右)と鄧芝(左)。 |
◆董和(?-- 220頃)
字は幼宰。南群枝江(湖北省枝江)の人。元は劉璋の部下だったが後に劉備に身を寄せる。諸葛亮に協力し軍と政を纏めるに功績があり、諸葛亮の称賛を受けている。この像は清の道光29(1849)年に建てられた。
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董和。 |
◆費禕(?-- 253)
字は文偉。江夏鄳(河南省羅山)の人。能弁家として知られ呉に使節として起ったことがあり、孫権もその力量を認めた。蔣琬没後、蜀漢の軍と政を委ねられ好
く国を治めたが、魏の降将によって暗殺される。謚は敬侯。この像は清の康煕11(1672)年に建てられた。
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費禕。 |
◆傳肜(?-- 222)
義陽(湖北省枣阳)の人
。劉備に従って呉と戦って敗れたときに殿を務めて戦死した。この像は清の道光29(1849)年に建てられた。
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傳肜。 |
◆呂凱(?-- 225)
字は季平
。永昌不韋(雲南保山)の人。南中大姓の雍闓などが反乱を起こしたときに、彼は蜀漢政権に忠実で国境を守って民を安んじ諸葛亮の称賛を受け、雲南群の太守に任命されている。後に反乱軍に殺された。この像は清の康煕11(1672)年に建てられた。
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呂凱。 |
◆簡雍(生没年不詳)
字は憲和。涿郡(河北省涿県)の人。早期から劉備に伴われ、しばしば他国への使者として遣わされている。劉備が成都に進撃したとき、降伏の使者を務め劉璋
の説得に当たっている。礼節にはこだわらない性格だった。この像は清の道光29(1849)年に建てられた。
◆龐統(179 -- 214)
字は士元。襄陽(湖北省襄陽)の人。才能豊かで「鳳の雛」と言われた。諸葛亮と同じ軍師中将に任命されている。入蜀に際し劉備に同行、益州を占領するため
に全力を尽くす。雒城(四川広漢)に進撃したとき流れ矢を受けて戦死する。謚は靖侯。この像は清の道光29(1849)年に建てられた。
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簡雍(右)と龐統(左)。 |
回廊の西側には「武将廊」があり、蜀漢の武将像が並んでいることを後で知ったが手元に案内図を持たない悲しさ、見落としてしまった。
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