【5月7日(土)】清昭陵
●清昭稜全体の配置は「清昭稜全景」を参考にしてください。
以下は清昭稜正門前にあった説明板から。
清昭稜の概要
清昭稜は太宗・皇太極と孝端文皇后(博爾濟吉徳/Bo'erjijite)の陵である。瀋陽の北部郊外にあるため単に北陵とも呼ばれている。
昭稜が最初に造営されたのは清王朝崇徳8 (1643) 年で、同年皇太極が埋葬されている。この陵墓は順治1(1644) 年に昭稜と命名された。
昭稜は順治8(1651) 年に最初の完成を見ている。その後、康煕帝、乾隆帝および嘉慶帝の手により増築・補修工事が行われている。瀋陽における清朝の三つの皇帝廟の内、最大の陵墓建造物である。
面積48万平方メートル内の清昭稜にはグループ建造物を含む38の建造物がある。清朝初期の建築技術のレベルを残した典型的な複合建築物として明朝の陵墓様式を引き継いでいる。
その建築様式は満民族独自の様式と特徴をも採り入れた独特な陵墓様式になっている。
昭稜は1927年に一般公開され、1982年には中国の全国重点文物保護単位に指定されている。
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清昭稜と言ったり昭稜と言ったりだが中国流、どっちでも好いのだろう。北陵公園を入った所にあった説明板では陵墓の広さを318万平方メートルといい、ここでは48万平方メートルといったりで、いったいどちらの数字が正しいのか定かではないが、多分、数字が指している領域が違っているのだろう。
昭稜入り口になっている「正紅門」の両側には一対の龍が嵌め込まれている。
順治6(1649)年に建てられたこの門は単櫓歇山様式の建築で三つの出入り口の内、中央を「神門」、東側を「君門」そして西側を「臣門」と呼び、門の両側の壁は釉薬を掛けた「紅墻」と呼ばれる袖壁になっている。
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昭稜入り口の「正紅門」。 |
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正紅門に嵌め込まれた標碑。 |
入場券を見せて正紅門を入ると神道の左右に華表が建っている。
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華表。 |
華表を通り過ぎると順治7(1650)年に建てられた「石像生」が神道の両側に並び立っている。石像生は陵墓前の儀仗・鑾駕の象徴で、墓主が重要な身分と地位であることを示している。北に向かって石獅(獅子)、獬豸(カイチ)、麒麟、馬、駱駝、象が神道の左右に一対ずつ並んでいる。
以下、説明板に目を通しながら順に見ていこう。
[石獅]
順治7(1650)年に建てられた。獅子は百獣の王、その威信は八方に及び、孤独な王権の生まれ変わりだ。歴代の統治者は陵墓でその力を利用する。宮殿前に業績と権勢を示すためにその象徴として石獅を建てる。
[獬豸]
「カイチ」と読む。是非・善悪・曲直を見分けることができる伝説の獣で、古代中国の法執行官が被る帽子は獬豸帽と呼ばれていた。石像を以て皇帝の厳正・無私を示す。
[麒麟]
祥瑞の獣と称されている。頭は龍のようで、角は鹿、全身は鱗と甲殻に覆われ、尾は牛に似て足は馬の蹄、伝説では神の鹿だと言われている。しばしば平和で繁栄している時代に現れ皇帝の慈愛と英知を示す。
[立馬]
白色大理石製で実物の馬と同じ大きさに彫られている。首を上げじっと佇むその勇姿は旺盛。皇太極が生前最も愛した「大白」と「小白」という二匹の駿馬に似せて彫られている。二頭の駿馬が立てた功績は数限りなく、何度も主人の命を救ったことから、未来永遠主人の伴ができるようにと墓前に立っている。
[駱駝]
黒色石材製。駱駝は皇太極が生前、出征中に数多くの功労を立てたので墓前に列せられている。その功績により主人と共にここにいる。
[立象]
白色石材製。その姿形は高大で威厳があり、性格は温和、天下太平・平穏の象徴である。その寓意は、広く従順な民衆と堅固な国土を示している。
六体の石像生の先、神道の中央に建つのが「神功聖徳碑亭」。
「神功聖徳碑亭」は「大碑楼」とも呼ばれている。康煕27 (1688) 年に建てられてた歇山式の方形重櫓で、内部には重量50トンと言われる巨大な石碑が収められている。
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大碑楼。 |
入り口を入ると巨大な石碑を背に負った亀に出くわす。この亀を亀趺(きふ)という。
亀趺は石碑を載せる大亀の形をした台石のことで、この亀を贔屓(ひいき)といい、龍の九子のうち龍になれなかった一子で、巨大な亀の形に似た想像上の霊獣だといわれている。
石碑の上の方には満族と漢族二種類の文字で『大清昭稜神功聖徳碑』とあり、その下には1,810文字で太宗・皇太極の生涯の文治武功が彫られている。
大碑楼の先にある華表、説明板には「石望柱」と書いてある。
またの名を海柘榴(つばき)という。なんでこれが海柘榴なのかは説明されていないので不明。
石柱の一番上は桃の形をしており、八角形をした石柱の表面には一面に雲の模様が彫られている。石望柱には陵墓を装飾して豊かな建造物にし、更に気魄と豪華な雰囲気を加える役割がある、と説明板に書いてあった。
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石望柱。 |
ここまで来ると目の前に昭稜の中心になる方城の入り口「隆恩門」が見えるが、その前の左右には祭祀用具を洗浄したり祭祀用の果物を準備する「房」が建っている。
神道の東側に建っているのが「滌器房」で康煕帝の建造。ここで祭祀用具を洗浄した。内部は展示室になっている。
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滌器房。 |
ドテッと座っている係員に入場券を見せて「滌器房」に入る。
大きな釜が三つ展示されている。この形は釜とは言わないようで鍋らしい。一番左の鍋は直径1.5m、深さが56cm。外側には八個の獣の形をした環がついている。元々「宰牲亭(省牲亭)」に設置されていたもので、陵墓で祭祀が行われる際にこの鍋で祭祀用の肉が煮られた。
手前の大きなサイコロ状の物は「清時代の拴帳石」としか説明がないが何だろう。調べてみたが分からずじまい。
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生け贄の肉を煮炊きした銅釜と清代拴張石。 |
こちらは「山陵钟」。「祭钟」とも呼ばれていた。順治15(1658)年に作られ鐘だ。
高さ1.24m、直径1m、頂部には龍の形をした二つの釣り具がついている。鐘の周囲には龍、花、8個の図案が彫られている。 元は東紅門外(昭稜の東側)の鐘楼に掛かっていて、陵墓内に生け贄がいたときに鳴らされていた。現在は鐘を保護するためにここに移されている。
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山陵钟。 |
「滌器房」の真向かいには祭祀の時に供えるための果物を準備する「果房」が建っている。建物の外観はほぼ「滌器房」と同じで果房内も展示室になっている。
撮影したい美術工芸品はいくつもあったが、如何せん室内の採光状態が悪くて思うように撮れなかった。
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黄地青花龍文六棱瓶。
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乾隆款 本金象耳竹瓶。 |
「滌器房」の北側には「茶膳房」が、「果房」の北側には「儀仗房」が建っているがどれも似通った建物なので撮影しなかった。
いよいよ昭稜の中心部に入るのだが、その前に城墻(城壁)の外れに見える「角楼」を仰ぐ。
城墻の上には回廊が設けられており、四隅にそれぞれ重櫓歇山十字屋根の「角楼」が置かれている。屋根は金色のタイルで覆われている。陵墓内で祭典などが行われるときは兵士が角楼に上り警護に当たった。
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城墻と角楼。 |
城墻の内部を方城というが、方城には隆恩門から入る。
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