【5月4日(水)】瀋陽故宮 後苑・西路
大政殿から後苑への入り口に二羽のツルを飾った壁がある。皇宮の装飾は龍が主役だがこの二羽の鶴にはどんな謂われがあるのだろう、調べてみたが分からなかった。
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赤壁の鶴にどんな謂われがあるのか。 |
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二羽の鶴は仲睦まじげに見える。 |
後苑は嘗ては皇宮の倉庫と台所だった一郭だ。ここで調理したものが故宮の住人達の口に入るまでにはずいぶんと距離がある。寒気の厳しい冬はどうしていたんだろう。
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倉庫と台所だったという後苑。 |
後苑の南側は高い塀に囲まれた中路の裏側に当たり、塀の上には敬典閣や東配宮、清寧宮の屋根、伝説の元になった煙突が見える。
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敬典閣(左端)、東配宮(中央)、清寧宮(右)の屋根が見える。 |
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清寧宮裏の階段から見下ろした後苑。 |
後苑と西路の間に溶岩を積み上げて作った小山に小亭、小さな滝、池がある。何でこんな場所に、と言う違和感を感じたが往時のものなのだろうか?
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後苑の西端にある小亭と滝。 |
滝の前を通って西路に抜ける。
西路の建物群は東所、西所と一緒に1746年から1783年にかけて建てられたもの。西路の建築様式は東路や中路の建築様式からはほど遠く中原の建物に近いものとなっている。
西路には九間殿、仰煕斎、文溯閣、嘉蔭堂、戯台などがある。
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九間殿と仰煕斎(右)に挟まれた庭。 |
仰煕斎の横を抜けて文溯閣の裏に出る。文溯閣は『四庫全書』が収められている所だ。
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仰煕斎と文溯閣(右)に挟まれた庭。 |
乾隆帝は15年の歳月を費やして、7万9337巻にのぼる『四庫全書』を編纂し、写本七部を(1)北京・故宮の文淵閣、(2)北京・円明園の文源閣、(3)河北・承徳の文津閣、(4)江蘇・揚州の文匯閣、(5)江蘇・鎮江の文宗閣、(6)浙江・杭州の文瀾閣、(7)瀋陽・故宮西路の文溯閣に収めた。
浙江・寧波の天一閣に似せて造られたという文溯閣は乾隆47(1782)年に建てられ、ここに『四庫全書』の写本一部が収められた。
七部あった『四庫全書』はその後の戦乱と外敵の侵入で激しく損傷し、現存するのは三部と半部のみである。
文溯閣に収蔵されていたものは一時あちらこちらを転々としていたが、今は本来あるべき場所に完全な形で保存されており、「書閣合一(書籍がもともと収蔵された建物に戻ること)」の唯一の「四庫全書」になっている。
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『四庫全書』が収められている文溯閣。 |
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文溯閣の扁額。 |
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文溯閣内部。『四庫全書』は非公開。 |
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文溯閣(左)前の庭。 |
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文溯閣から嘉蔭堂に向かう。 |
嘉蔭堂の前にある小堂を覗くと太平車と清代皇帝礼輿のレプリカが飾ってあった。
説明は中国語のみなので正確ではないが、太平車は「清代盛京の実勝寺で行われた跳布匝と言う儀式の時に使われたもので仏車あるいは七宝車とも呼ばれた。」もののようだ。
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太平車。車輪が歯車状だが何のためなのか。 |
皇帝が用いたという「皇帝礼輿」は天井が八角形をしており16人で担いだものらしい。
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清代皇帝礼輿。 |
嘉蔭堂を抜けると回廊に囲まれた広場に出る。
正面の舞台は「戯台」で皇帝や皇族のためにここで演劇が上演された。
芝居好きの乾隆帝八十歳の誕生日を祝うために、全国各地の劇団が北京に集結したことが、後の京劇の誕生に繋がっている。
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戯台。 |
戯台は北向きに作られており、皇帝は向かい側の嘉蔭堂から、大臣たちは回廊に列席して芝居見物を楽しんだ。
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戯台と嘉蔭堂に繋がる回廊。 |
戯台の背後(南側)は控え室(扮戯房)、上演時の音響効果を考慮して戯台の左右(東西)が回廊によって囲まれている。
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戯台と背中合わせは扮戯房。 |
戯台から扮戯房前の広場に出ると瀋陽故宮の見学も終わりになる。扮戯房左側の西掖門から再び崇政殿の前に出て大清門から瀋陽故宮を出る。
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扮戯房と奧に見えるのが西掖門。 |
故宮内で絵葉書大の案内図を持っている人を見かけたので、何処で入手したのか訊いてみた。相変わらずコミュニケーションには手間取ったが、大清門を入るときにもらったもののようだ。大清門を出るときに無事入手。
10時に入場した瀋陽故宮、大清門を出たときは1時半を回っていた。
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西大門から見た瀋陽故宮の赤い甍群。 |
故宮と正陽街の間の公園には世界遺産指定を記念した石碑が建っていた。
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自然石に刻まれた世界文化遺産記念碑。 |
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