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  2010年11月:松虫寺
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  • この松虫寺紹介ページは癒しの里で入手した情報の他、Wikipedia、松虫寺・松虫神社を紹介しているWeb Siteから得た情報を参考にさせていただいた。

【松虫寺 仁王門】

出発地の北総線・印旛日医大前駅から1.2kmほど、ノンビリ歩いても20分足らずだろうか。
大きな木の懐に包まれるように「松虫寺」と刻まれた石塔と「松虫寺の概要」を記した石碑の前に到着。その前には石段と赤い山門が見える。ここが「摩尼珠山医王院 松虫寺」だ。
道路を挟んだ寺の前は駐車場になっている。

ここが松虫寺の入り口。

松虫寺の石塔と寺の由来を刻んだ石碑。

松虫寺の概要

松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平十七(七四五*)年僧行基の開創と伝えられ、始め三輪宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属し今日に至っている。寺伝によれば、聖武天皇の皇女松虫姫、(不破内親王)が重い病に患られた時、不思議な夢のお告げにより、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたという。
現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一本造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は江戸時代、享保三年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木文山、薬師堂の扁額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政十一年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。
平成八年七月 摩尼珠山、医王院、松虫寺
(句読点、括弧は原文のまま。 * はサイトの管理人が追加。)

* 奈良東大寺(大仏殿)の建立は752年のこととされているので、松虫寺はそれよりも7年遡った年の開創と言うことになる。


ねじれ立つ山門前の木。

享保3(1718)年に改築されたという朱塗りの仁王門。赤く塗られている屋根が何で葺かれているのかは分からない。

石段の上に建つ山門は仁王門。

山号額(山門に掛かる額)の「摩尼珠山」の書は「松虫寺の概要」にもあるように儒者で能書家として知られる佐々木文山によるもの。

佐々木文山の手になる山号額。

仁王門の左右にはユーモラスなギョロ目の阿形・吽形の力士像が立つ。それぞれの像の足もとの辺りの孔子壁には、ここから撮影するようにとばかりに10cmほどの穴が空いている。

阿形(右)と吽形(左)。

仁王門をくぐる時に左手の張り紙に気がついた。本尊開帳が33年に一度であると書かれている。

次回の開帳は平成24年。

仁王門を抜けると左側には「印西大師第七十五番札所」が建つ。

印西大師第七十五番札所。

右を見ると苔で表情が分からなくなっている地蔵尊がこちらを見ている。台座に刻まれている文字も摩滅して定かには読み取ることができない。

地蔵尊蔵。

さらに右の方には、近年献像されたと分かるふくよかな顔立ちの弘法大師蔵と四国八十八カ所巡拝祈念碑が立つ。

未だ新しい巡礼姿の弘法大師蔵。

仁王門右手に雷に打たれたのか幹の太さの割りに背の低いイチョウの木がある。松虫姫が病癒えて都に帰るときに、使っていた銀杏の枝の杖を立てていったところ、後に芽を吹いて成長し今に残るといわれている老樹だ。ということは樹齢1,200年余ということだが、それにしては細すぎないか。

松虫姫の杖が成長したと言われているイチョウの木。

イチョウの木の裏に回るといかにも古い石碑が二基。大きな方には「普門品一萬巻供養塔」 と刻まれているのが読める。小さな方は風化と苔で読み取りにくいが一部に「西應寺」と読める部分がある。

イチョウの木の裏側に古い石碑が二基。


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