【7月24日(土)晴】常田健土蔵のアトリエ美術館
起き抜けに誰も入っていない風呂へ。やっぱり好い湯だ。
旅館の朝食は何年振りなんだろう、ホテルのカフェテリア式の朝食も好いけど部屋でユックリ楽しむのも好い。
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さつきの朝食。 |
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デザートの果物とコーヒー。コーヒーは無かったことにしたい。 |
浅虫温泉を後にして浪岡へ。
朝のコーヒー以外「割烹旅館さつき」は食事も温泉も好い旅館だった。
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浅虫温泉駅の待合室。 |
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青い森鉄道線 浅虫温泉駅。 |
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浅虫温泉駅下り線ホーム。 |
週末だというのにホームに人の姿が見えないのは COVID-19 を理由に旅行自粛が言われているからか。
やってきた電車内も乗客はまばらで、その中に観光客らしい姿はない。
浅虫温泉駅から青森駅まで25分弱、青森駅で15分ほど待って奥羽本線に乗り換え、弘前方面へ4駅、時間にして20分ほどして浪岡駅に到着。
駅員のいない改札はホームと小さな待合室との間を仕切るガラス戸を開けて通り抜けるだけ。
待合室の外に出て振り返ると、真新しい駅舎は失礼ながら『えっ!』と驚くほどモダンで、ガラスを多用した明るくて洒落た立派な建物だ。
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浪岡駅舎(青森タクシー協会より)。 |
駅から目的地までは徒歩で30分くらいだと聞いていたので、駅に降りた時は歩こうと思っていたのだが、改めて手元の地図を見ると、これが思ったよりも分かりにくい。
駅前に歩いている人がいないくらいなので、歩き出して、途中で美術館までの道を尋ねたくてもそんな人に出会えるかどうか心許ない。
日差しも強いし、無理をせずに駅前からタクシーを利用することにした。
走り出したタクシーの運転手に、浪岡駅がモダンで綺麗なので驚いたと言うと、駅舎だと思った建物のほとんどが地域の交流を図るために、2010(平成22)年に完成した青森市浪岡交流センター「あぴねす」と言う建物で、浪岡駅は「あぴねす」の北寄りの極一部なのだと教えてくれた。
浪岡駅から5、6分走ったろうか、タクシーはヒョイと細い路地に入って停まった。
今回の津軽行の目的はこの「常田健 土蔵のアトリエ美術館」を尋ねることだった。
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常田健土蔵のアトリエ美術館。 |
平家建てのこぢんまりしたこの美術館は、常田健が亡くなってから5年後の2005(平成17)年に、彼が生前アトリエとして使い、そこで寝泊まりもしていた土蔵の近く、リンゴ畑の外れに建てられたものだ。常田健の作品300点あまりを収蔵し、常時30点ほどを展示している。
今は広い空き地にポツンと建つ美術館だが、この春まで周囲はリンゴ畑だったそうだ。
健が亡くなり次女の岡田文(美術館館長)さんがリンゴ畑を引き継いできたが、高齢のため世話ができなくなり、今年(2021/令和3年)からリンゴの栽培を諦めたと聞く。
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美術館の周囲はリンゴ畑だった(山本ミノさん提供)。 |
世話をする人がいなくなったリンゴの木は病気が発生しやすく、周辺のリンゴ園に被害をもたらす恐れがあるため、今年の春に全て切られたそうだ。
美術館の周囲にはその切り株が一面に残っていた。一度でいいからリンゴの木に囲まれた美術館を見たかった。
美術館入り口に雪の中で撮影された常田健のポートレートがかけてあった。
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晩年の常田健。 |
1910(明治43)年10月21日、常田健はこの浪岡(当時の青森県五郷村)の地に生まれる。父は浪岡小学校の校長を務めた健三郎、母は教師をしていたみさほを。みさほの兄は画家阿部合成の父だ。
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館内の様子。 |
1928(昭和3)年、健18歳の時、旧制弘前中学校を卒業すると父の反対を押し切って上京し、川端画学校に進む。
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ひるね(1939年)。 |
川端画学校とは、1909年(明治42)年に日本画家の川端玉章が東京都小石川下富坂町に創設した私立の美術学校。
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飲む男(1939年)。 |
同校を卒業した1930(昭和5)年から、当時、東京・池袋にあったという日本プロレタリア美術家同盟研究所(プロレタリア美術研究所)で学び、1933(昭和8)年に浪岡に帰郷している。
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水引人(1940年)。 |
故郷に戻った健はリンゴ園を営みながら、過酷な環境の中にある農家の人々を描き続ける。一人黙々と絵を描き続けた常田健の作風は、制作活動初期に既に完成の域にあり、代表作の「水引人」や「飲む男」「ひるね」にそのタッチを見ることができる。
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稲刈り(1950年)。 |
健は『他人に見せるためでも、売るためでもなく、ただ描きたいから描き続けた』と語っているように、彼のほとんどの絵は土蔵に残されていたという。
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田おこし(制作年不詳)。 |
常田健の作品を広く知ってもらおうと1999(平成11)年に東京・銀座のギャラリー悠玄で「常田健 津軽に生きる88年」展が開かれ、2000(平成12)年4月には「常田健 津軽に生きる88年」の全国巡回展が始まるのだが、健はなんとその前日に急逝してしまう。享年90歳だった。
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収穫期(1982年)。 |
展示されている作品を見終わる頃になって、呑み仲間の山本ミノさんもやって来た。
彼はこの美術館のアートディレクターで、本業は東京で活躍しているグラフィックデザイナー、2年前の夏に常田健の存在を教えてくれたのも彼だ。
ミノさんが展示中の作品を入れ替えるために浪岡に行くというので、タイミングを合わせて美術館を訪れたという次第。
健が生前アトリエとして使っていた土蔵が当時のまま美術館の敷地内に保存されているというので、早速ミノさんに案内してもらった。
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土蔵のアトリエ。 |
健はこの土蔵アトリエに寝泊まりしながら制作を続けたという。
アトリエには筆立て一杯に詰め込まれた絵筆や、絵の具、パレット、スケッチブック、描きかけの作品が、そして中二階には彼のベッドや読みかけの本、レコード盤などがそのまま保存されている。
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ちびた絵筆や雑然と置かれたパレット。 |
筆立ての絵筆はどれも筆先がチビて短く、その様から彼がいかに筆先に力を込めて絵の具をキャンバスに塗り込めたのかが偲ばれる。
普段は公開していないという中二階に案内してもらった。
そこには健が休んだベッドに、枕元のテレビ受信機、スケッチブック、読み差しの本、文具などが雑然と置かれたままになっている。
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健が休んだベッドもそのまま。 |
ベッドの足元から一階のアトリエを見下ろすことができる。
イーゼルに掛けられた2枚の作品は健が最後まで手を入れていた作品だそうだが、2枚ともモノトーンに近い作風なのが興味深い。
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最後まで手を入れていたというモノトーンの二枚の作品。 |
美術館で求めた、横尾忠則が装幀・造本したという大型の常田健 画集に “F” というタイトルの作品が収められている。ガッシリした顔立ちと強い視線を写した肖像画だが、何処か見覚えのある風貌をしている。
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“F” というタイトルの作品(画集より)。 |
“F” は桑沢学園で教鞭を取っていたことがある画家・尾崎ふさだと、ミノさんが教えてくれた。
やっぱりあの絵画の先生だった。桑沢学園在学中に絵画の授業を指導してもらったのが尾崎ふさ先生で、こんな繋がりがったことを知らなかった。
健とふさとは晩年まで親交が続き、お互いに「健ちゃ」「ふっちゃ」と呼び合う同郷の画友だった。
美術館のロビーで見せてもらった常田健のNHKドキュメンタリービデオにも、二人の気心の知れた交流の様子が描かれていた。
常田健土蔵のアトリエ美術館は一般財団法人常田健記念財団が運営している。
美術館に常駐している職員の古川義弘さんは青森生まれの財団の職員で、時代は違うがやはり桑沢学園の卒業生だと聞いて、また驚かされた。
美術館のロビーでミノさんと話し込んでしまい、予定の時間を過ぎている。
あわてて古川さんにタクシーを呼んでもらい浪岡駅へ。
昼食をとる時間がないので「あぴねす」で駅蕎麦を掻き込んで本数の少ない電車になんとか間に合わせる。
奥羽本線で新青森駅へ。
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