【2月29日(土)曇り】清閑寺陵・清閑寺
子安の塔の手前の黒塗りの鉄格子の門を出ると、左手は深い山で「世界文化遺産貢献の森林 〜高台寺山国有林〜」の掲示板が立っている。
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森と掲示板。 |
掲示板は続けて「これらの緑が古都京都の景観維持に大きな役割を担っている」と説明している。
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世界文化遺産貢献の森林。 |
森の反対側は緑色の金網で囲まれた森で清水寺の境内らしい。
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森と金網の間を進んで行く。 |
黒塗りの鉄格子門を出て250メートルあまり、右手に明かりの点いている家がある。小窓の上には「こめこ」と「ソラどら」の看板が掛かっている。
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小窓の前にはどら焼きが入っているカゴが置いてある。
中を覗くと、白衣を着た人がこちらに気づいて小窓を開けてくれた。
ここでどら焼きを作っているそうだ。訊くとどら焼きの皮は米粉で,自家製のつぶ餡やこしを挟んでいるそうだ。せっかくなので一つ購入 。
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どら焼きの名前が「ソラどら」と変わっているので、ホテルに戻ってから調べてみると、社会福祉法人新明塾が運営している障がい福祉サービス事業所だった。
可愛いどら焼きをパクつきながら道を進めると「歌の中山 清閑寺」の石柱が立つ小径が山に沿って登っている。
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「歌の中山 清閑寺」に続く道。 |
山沿いの小径を上ること数分、左手に物々しげな柵で仕切られた長い石段が見える。
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石の柵と石段。 |
宮内庁名で「六条天皇清閑寺陵 高倉天皇後清閑寺陵」の高札も見える。
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宮内庁の高札。 |
六条天皇(1164-1176)は平安後期・第79代天皇(在位1165-1168)。
即位は1165(永万1)年、2歳(万7ヶ月)という歴代最年少で即位した天皇だが在位期間も2年8ヶ月と短い。実際の政務は祖父の後白河上皇がみたという。
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六条天皇陵・高倉天皇陵。 |
高倉天皇(1161-1181)は第80代天皇(在位1168-1180年)。六条天皇の伯父。
天皇陵の前から右に延びている石段を登り切ると白壁の小さな山門、天皇陵の名前についていたここが清閑寺。
左の門柱に打ちつけられた小さな木製の郵便受けに「賽銭箱」と書かれた白い紙が錆びた画鋲で留めてある。拝観料100円と書かれた貼り紙が並んでいる。
右の門柱に「歌中山 清閑寺」の門札が掛かっている。
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歌中山 清閑寺の山門。 |
山門をくぐった直ぐの所に高札型の説明板が立っている。
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謡曲「小督」と清閑寺
「歌の中山清閑寺」といわれるこの寺は真言宗智山派に属し、延暦二十一年(八〇二)紹継法師の創建によるものですが、古典「平家物語」に書かれた小督局が、平清盛のため尼にさせられた所といわれています。小督は高倉帝の愛を受けましたが、帝の中宮建礼門院が清盛の娘だったため、嵯峨に身を隠したのは有名で、これを元につくられたのが謡曲「小督」です。 しかし帝の心は変わらず「私が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言され養和元年(一一八一)亡くなられたので、この寺に埋葬されたといわれます。 寺の背後にある山中に御陵があり、傍らに小督の墓があり、またこのうらにある宝篋印塔は供養塔だと言われています。山号の「歌の中山」は清水寺から清閑寺に登る山路をいいます。
謡曲史跡保存会
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同寺に伝わるところによると802(延暦21)年に比叡山の紹継法師によって天台宗の寺として創建される。一時、荒廃するが一條天皇の時代(986年 – 1011年)に播磨守・佐伯公行が鎮護国家の道場として法華三昧堂、宝塔、山神堂などを建立して、菅原道真が梅樹から彫ったという十一面千手観世音菩薩を本尊に安置して「清閑寺」と号したという。
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鐘楼は山門をくぐると直ぐの左手。 |
嘗ては法華三昧堂、宝塔などが並んでいたが今は十一面千手観世音菩薩を安置する本堂を残すのみの境内。
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本堂。 |
境内の端に大きな石がある。
ここから市内が扇を広げたように一望でき、この石が扇の要の位置にあたることから要石と呼ばれるようになった。
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要石。
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山門を入って右に回ると木立の中に小督の局の供養塔が見える。
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小督の局供養塔(奥の塔)。 |
登ってくるときには気づかなかったが、清閑寺から清水寺に戻る「歌の中山」と呼ばれた小径は風情がある。
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歌の中山。 |
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清水寺に戻ってきた。 |
清水寺の黒塗りの鉄格子門をくぐって清水寺に戻る。
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